七尾が生んだ桃山美術の画聖
長谷川等伯

等伯の一生等伯の時代等伯の作品1等伯の作品2年表七尾までのアクセスリンクTOP

○等伯の一生

能登の時代(33歳頃まで)

長谷川等伯は、桃山画壇の覇者、狩野永徳を脅かすほど絵師としての成功を治め、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家です。天文8年(1539年)、能登国の戦国大名畠山家家臣・奥村文之丞宗道の子として、七尾(小島町付近)に生まれ、幼名は又四郎といった。幼い頃に一族で染物屋を営む奥村文次を通じて染物屋・長谷川宗清の元へ養子となった。養父には絵の心得があり、絵を学び、また雪舟の弟子・等春からも学んだ。名を等春から1字を取り、長谷川信春と名乗り、その頃から仏画を描く絵師として徐々に有名になっていった。

等伯が大成した要因の一つとして、生まれ育った七尾の文化的土壌が上げられる。等伯が生まれた頃の七尾は畠山義総の治世の下、小京都ともいわれるほどの繁栄で多くの貴族、公家たちが七尾に下向したことで、七尾の文化は大変豊かであったと思われる。現在知られている作品で最も初期の作品は26歳筆の落款のあるもので、能登を中心に石川県・富山県などに10数点が確認されています。
 
奥村家の菩提寺・本延寺の等伯が自ら彩色し寄進した木造「日蓮聖人坐像」、「日乗上人像」(羽咋市・妙成寺)、「日蓮聖人像」「釈迦・多宝仏図」「鬼子母神・十羅女図」「三十番神図」(4点共、高岡市・大法寺)、平成14年に東京国立博物館の調査で明らかとなった、33歳筆「鬼子母神・十羅刹女図」(富山市・妙傅寺)は日蓮宗関係であり、等伯自身も熱心な法華信者であったことが分ります。

元亀2年(1571年)畠山家が混乱していく中、等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻子を連れて上洛した。



京都・堺の時代(33歳〜40歳頃)

七尾の菩提寺本延寺が本法寺の末寺であったことから、上洛後等伯は本法寺の塔頭である教行院に住し、活動の第一歩を踏み出した。本法寺には、日堯上人の肖像画「日堯上人蔵」に「父道浄六十五歳」「長谷川帯刀信春34歳筆」と款記から、「長谷川等伯・信春同人説」の根拠となった。能登周辺以外にも「信春」印作品が現存しており、筆致からも上洛後しばらくは信春、50歳頃から等伯を名乗った。

最初は狩野永徳の門で学ぶが、狩野家一門しか名を成せず、他の者は分業主義に徹して一道具に過ぎない師弟関係であることから狩野派を辞めた。この時期は、狩野派だけでなく様々な画派の絵画を学び消化吸収し、そこから等伯ならではの独自の表現を試みていった、非常に重要な時期であった。
 
また、国際都市であった堺に等伯は商人の注文に応じて絵画を描き、評判を得ており、親交のあった本法寺の日通上人、茶人の千利休、後妻となる妙清(先妻の妙浄は等伯41歳の時に死去)は堺出身であった。
 
人生の賭けでもあった、一大パフォーマンス、大徳寺三玄院の襖に強引に「山水図襖」を描くという事件を起こす。大徳寺の開山春屋宗園は禅寺寺院内に襖絵の必要を認めなかったが、等伯は宗園の不在時に訪れて描き上げた。これが評判を呼び、数々の寺院から絵の依頼を受けるようになった。等伯40歳代中頃には長谷川派と呼ばれる絵師達を率いていた。



京都の時代(50歳代)

狩野派は室町時代からの地固めが大きく花開き、天才肌の永徳を中心に強力な職工集団を完成させた。狩野派は宮中の仕事を一手に請け負い、織田信長、豊臣秀吉などの時の権力者たちと結びつき、画壇をほぼ独占していた為、長谷川派はなかなか機会に恵まれなかった。

天正18年(1590年)仙洞御所障壁画制作が狩野永徳に阻止されたが、同年、狩野永徳の急死により、等伯にチャンスが回ってきた。秀吉の子、鶴松が亡くなり菩提寺・祥雲寺の建立、襖絵制作を等伯に依頼した。(「桜図」「楓図」)。色彩と強靭な筆力、大画面としての雄大な構成力をもって長谷川派の総力を結集して制作した金碧障壁画である。その大胆で華麗な構図に秀吉は大変気に入り、等伯に知行200石を授ける。等伯のこの仕事を通じて名実ともに狩野派に対抗するまでになった。

しかし、等伯に不幸が続きます。良き理解者であった千利休が自刃、等伯の片腕となって制作にあたった息子・久蔵が26歳の若さで亡くなった。その悲しみを背負って描いたのが「松林図屏風」(東京国立博物館)です。当時、等伯は中国南宋の画僧・牧谿(もっけい)の精妙な自然描写に衝撃を受け、牧谿の筆法を完全に会得するまで、何度も繰り返し描いていた。

等伯50歳代は、深い悲しみに見舞われながらも、「松林図屏風」をはじめ「竹林猿猴図屏風」(相國寺・承天閣美術館)や「樹下仙人図屏風」(京都市・壬生寺)、「枯木猿猴図屏風」(妙心寺・龍泉庵)や出光美術館所蔵で知られる「竹鶴図屏風」「松に鴉・柳に白鷺図屏風」「竹虎図屏風」など多くの優れた水墨画を制作した。また、54歳頃には親交の深かった日通上人が等伯の話を書き写した事典的内容を含んだ「等伯画説」を制作した。



京都の時代(60歳代)

等伯は、次々と大作を手掛け、妙心寺隣華院の襖に「山水図」、大徳寺塔頭の真珠庵の襖に「商山四晧図」「蜆子猪頭図」、南禅寺塔頭の天授庵に「商山四晧図」「禅機図」「松に鶴図」などの襖絵を描いた。

等伯は、親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描き、本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えられる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10mにも及ぶ。供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとした。

注目されるのは、表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、先立った息子などの供養銘が記されている。

等伯は66歳の時「法橋」の位に就いた。これは元々、宮中から高僧に対して授ける位でしたが功績のあった優れた絵師たちにも与えられるようになりました。『御湯殿上日記』によると、等伯がそのお礼に屏風1双を宮中に持参したと記されている。当時はこの位を貰うために様々な品が献上されたといわれますが、屏風の場合4双程度必要であったことから、等伯の1双というのは特例ではないかと思われる。また、等伯は67歳の時、法橋の次の位である「法眼」に就いた。



京都の時代(70歳〜72歳)

等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯は日通上人の肖像を描いている。
また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いている。
慶長15年(1610年)徳川家康から招きを受け、江戸に赴く。その旅の途中で病を得、到着後2日目に病死した。
享年72。



その後の長谷川派

等伯が亡くなると長谷川派は急速に衰退した。
等伯が他界した翌年には、後継者であった次男宗宅も急逝したため、以後、流派としての結束は弱まった。
しかし、門弟の1人、長谷川等胤(とういん)が仙台藩主・伊達政宗に重用されたように、意匠を受け継いだ絵師たちの活動はしばらく続いた。
さらに、各地に散った絵師たちによって、等伯の生み出した意匠は描き続けられ、江戸時代初期の屏風絵などに再現された。